ファッション 第10回:アヴリル・ラヴィーン

1984年9月27日カナダ、オンタリ州のナパニーという小さな田舎町でふらんす人の父ジョンとカナダ人で専業主婦の母ジュディとの間に生まれた子供はフランス語で“4月”という意味を持つ“アヴリル”と名づけられた。2歳年上の兄マットと3歳年下の妹ミシェル(ちなみにアヴリルは妹思いの優しい姉)との兄弟を持つ3人兄弟。小柄ながらに2歳には大声で歌ったり、人の注目を浴びることが大好きなおてんば少女。いつもスポーツをして男の子や兄と遊びとにかく元気。週に2度教会で歌っていたおかげでか子供ながらに大きな声量を持ち大人をも驚かしていた。両親はそんな彼女に11歳の時初めて6弦ギターを与えた。アヴリルはひたむきに独学でベッドの上でレニー・クラヴィッツの「Fly」を何ヶ月も練習した。歌が大好きなアヴリルはただ曲をコピーし弾くことより自分の楽曲を作りたいと思うようになる。11歳で地元音楽支援団体に参加し幾度かショーにも出演。アヴリルは兄とキャンプや釣りをして楽しむ一方以前から続けていたホッケーにも磨きがかかる。(2年連続最優秀賞を獲得している)停学になったりしながらも学生中に書いた初めての曲はどれもロックではなかった。ギターに磨きをかけタレントコンテストにも出演し器材等も学び歌うという技術面でも上達していく。アヴリルの好きなシンガー、シャナイアに会えるというコンテストではテープを送り見事優勝、2万人の前でシャナイアと堂々たるパフォーマンスをしたという。14歳に初めてのスタジオ録音を体験。録音といっても簡単なものだったがこれをきっかけに運命ともいえるクリフと出遭う。2人は意気投合しアヴリルに自作曲を作るように要請、それらパフォーマンスを撮ったビデオテープをクリフは知り合いに送り続けた。スカウントマンが来た日もあったが年齢の若さから見送りとなる日も。しかし彼がポンと置いたBlink182のアルバムでアヴリルはロックにはまってゆく。ようやくビデオテープを見たネットワークレコードを取り入れNYへと旅立つ。ここでピーターと「Why」を作りあげP!nkを売り出したアリスタレコードの前でWhyを含む3曲を歌い上げる。それを見たアリスタ側は330万$の契約小切手をすぐに渡した。そして学校を中退することを決意、本格的にNYでのレコーディングに取り掛かる。が、レコード側の意見とアヴリルの意見との違いやプロデューサー陣といまいち噛みあわずLAに移動。そこでクリフやTheMatrixといったプロデューサー達とロックよりの音楽を作っていく。02年6月4日リリースした1stアルバムLetGof初登場8位を記録、5週間目に新人異例の100万枚を突破、現在では全世界2000万枚を売り上げ現在も売れ続けるというモンスターアルバムとなる。全曲作詞を手かげるアヴリルの詩はどれもリアルで胸につきささる。シングルカットの曲も絶好調でまたたくまにティーンから絶大な支持を得る。その後ツアーに入り来日も果たす。ツアー後はバンド仲間や友人、新しいプロデューサーという少数派で2nd目にとりかかる。ファーストが売れまくったアヴリルは気にせずよりダークでリアルな自分を表現していくことを決意。04年5月25日2nd「UnderMySkin」をリリース。日本、アメリカ、イギリスと各地で初登場1位を記録し人気ぶりを見せ付けた。以前よりダークでロックな音楽が揃った。アヴリルはセンスが良く02年はネクタイを好み最近はかなりガーリー。でもデビュー当時からのコンバースのスニーカーとヴィンテージ、ボーイッシュさは残したまま。音楽性の違いからブリトニー、クリスティーナ、ヒラリー、アシュリー(その後和解?)、BSB、アーロンといったシンガー達と衝突も多い。ポップロックシンガーを流行らすきっかけとなったアヴリルは「ロックプリンセス」といったレッテルも貼られる。またチャリティにも熱心に参加、ケリー・クラークソンに楽曲提供、多くの映画サントラに提供するなどシンガーとしての仕事ぶりも順調。私生活を話すことを嫌うアヴリルだが05年同郷カナダのロックバンドSM41のデリック(Vo)と婚約、より女らしくなりLAで一緒にくらしている。新作はもう少しあとのこと。12月7日には東京でのライヴ収録のDVDが日本でリリース。タトゥーを持ちヘアはブラウンのストレートからブロンドのパーマへ・メイクも軽くなりデビュー当時のとがった雰囲気はもう無い。スケーターで遊んでいたアヴリルはもういないがデビュー当時からのリアルな詩は本物。すてきなお手本だ。


クリックするとアヴリルの画像が見られます。最近のアヴリルからデビュー時の写真あり。
























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